2012年4月28日土曜日

上海・啓東・蘇州の旅 2012年4月18日   1/2

朝目覚めて、ホテルの窓から外を眺める。
人生は旅そのもの、未知な人と出会う楽しみは人生と同じ、
私のまだ染まっていない部分が、出会う人たちの色に染められ、
あるいはペンキで家を塗り替えるように、染め変えられる。





今回の中国の旅の始まりはここ、啓東、旅行計画はすべて其田さんと、
彼の助手のジャンがしてくれるので、私はただ中部空港のチェックインカウンターに
旅券を見せるだけ。 そこから鏡の裏にある「不思議な国」に足を踏み入れる。
4月17日の夜は「啓東グランドホテル」で泊まった。
ジャンが言うには、「荒川さんのために、この町で一番いいホテルを取った。」
だが、私はこの市そのものを知らなかったし、中国発音を何度聞いても市の名を覚えられない。

ホテルのチェックアウトは時間がかかる。部屋の有料小物(飲料、カップめん、下着、トランプ、衛生用品 等々々・・)が消費されていないかを全部チェックするためだ、待っている間に外に出て、ホテルの看板を読んで、やっとここがどこか判りかけてきた。
宿代を清算しているジャン








ジャンはカーナビに
上海ファーイースト社の新工場を打ち込んだが
よく似た地名と間違えて入れてしまったために
予期せぬ行程が
待ち受けていた。行けども行けども、ファーイーストにはたどり着かない。

今、中国には新道(モータリゼーション以後に建設した道路)と
旧道(以前からの道)の2種類がある。
                 中国では電動3輪車が大活躍、速度は40㌔まで、免許はいらず走行可能距離は50km。
写真は新道、速度標識によっては100㌔!! OKの所もある。
日本では、車幅から横にはみ出すことは禁止だが、ジャンの話では、幅の
 3倍まではOKだと、日本では信じられない事を言う。

このあたりで、すでに50㌔来てしまった。海はすぐそこだが、それらしい建物は、見渡しても全くないので間違いを確信した。前の車はどうやったらこれだけ積めるのか考えてしまうほど草を積み、それを蒔き散らしながら走っていた。

どこへ行っても菜の花ばかり、それは私の原風景でもある。私の実家周りは、今は街中にあるが、幼児の頃は畑があり、生まれて初めて覚えた花の名が菜の花だった。


写真左は携帯をカーナビとして使用しているところ

2時間田舎のドライブを満喫?した後、ようやくたどり着いた新興工業団地の入口、奥へ行くとまだあまり工場は建ってなく、①ファーイースト新工場は一番海側にある。

工場の内部に案内してもらう。
これは碧南セーリングクラブが発注した420
次期の国体(少年)種目艇として今注目を浴びている。
 

これは海陽海洋クラブが発注した RIB480 エッジを丸めた後にゲルコートでタッチアップしているところ。このあと、写真を撮るために艇に近づきすぎて、私の服は赤ペンキがいっぱいついてしまった。 まあ、見学の記念スタンプが押されたという事にしておこう。

このタイプは少し改良されており、ステアリングシステムの配管が左の溝の中に入り、
蓋式となっている。以前はパイプの中に突っ込む方式だったので、中にものが入ると
取り出せなかったが、今は蓋を開けて掃除もできるようになった。

トランサムの高さは542㎜

FRP全長は4110㎜

FRP幅は1657㎜

これは1クラス大きいRIB580のモールド


いつもメールではクリスティーナさんとコンタクトを取っていて、最後に「明日、上海で会いましょう。」と書いてあったので、ここで会えるかと思ったが、留守だった。 
彼女の代わりに、案内をしてくれたのは、品質管理の主任。

  終わったのはちょうど12時で昼休みに入った。 予定時間が2時間遅れている。 外で食事を取ると遅くなるので、主任が「食べていかないか?」との誘いに、ありがたく頂戴することにした。 だだっ広い食堂。今100人の従業員は、今後もっと増えることを予想しているのだろうか?

ファーイースト10周年記念イベント

上海の西外れ、太湖との中間に、淀山湖と言うかなり大きな湖がある。
62平方㌔もあるのだが、大き目の地図には描かれていない。
ここにファーイースト社のセーリングクラブがあり、
創立10周年記念試乗会があるので向かった。
啓東の新工場から直線距離で約120km、そのうち50kmは上海市内を抜ける。
市内は高架の都市高速だが、まったく車の数珠つなぎ状態で、低速道路。
ドライバーのマナーはよくない。 スキあらば強引に割り込むのが普通、
昨年の大地震の時、中国のメディアは、災害直後の
日本の譲り合いの交通に「驚嘆」したのがよくわかる。
ジャンの話では、マイカーを持つ人はまだ少ない。
“快楽車的生活” とマイカーブームの到来を告げるポスターが
商店に貼ってあったのを見かけた。
ガソリン代はリッター100円と、収入の割にはまだ高い。
それでもなお、この渋滞状況。半分の人が車を持つ時代が来れば上海交通はどうなるんだろう。
やっと郊外に 出ると、リゾート地のような景色に代わる。
軍やら大学やらいろんな施設が目立つ。その中に、木立ちの間から空母のようなものが見えた。


セーリングクラブでの写真はこれ1枚だけ。
実は、この時、昨夜食べたナマの沢蟹が持つバイキンが、私の腹の中で暴れだしていたのです。   後で松本さんが言うには、「あれはダメです、日本人はたいてい当たりますね。」 ジャンは、「僕も食べたけど、大丈夫だよ。」  「中国人は大丈夫、慣れているから、」と松本さん。  私は親から受けた、『もったいない教育』のせいで、不審ながらも食べてしまった事に後悔した、がもう手遅れ。  クラブに着いたのが4時過ぎ、5時には試乗会は終了して、   一番楽しみにしていた夕食会の料亭へのマイクロバスに、お腹の不安抱えて乗った。         

写真はシンガポールのレーザーセイラーEileenさん。                                 
料亭 “樟居” に到着。
看板は何もないので一見料亭には見えないが、格式が高そう。
ゲストは西欧人が多かった。日本で8月に開講されるIMセミナーのチラシを用意したのだが、クルーザー系のお客が多く、渡しても効果のほどはあまり望めないようだった。
庭園を散策する。
私より1日遅れて日本を出た其田さんと、ようやくここで合流できました。
今日はファーイースト社の社長は姿を見せず、代理で妹さんにゲストは接待していただいた。

達筆でサラサラと漢詩を書き上げると
そばにいた、Eileenさんが、英訳する。    「高い山から水が流れ、その音を観知りする。」    
彼女は英語、中国語(広東語、福建語)日本語ができ、普段は英語を使っているとか。

食事が始まり、妹さんはファーイースト ファミリーの3代に渡る物語を話し始めました。
 『祖父の代はサンフランシスコに出稼ぎに行き、成功して故郷に帰り、ワイナリーで大成功をおさめたが、文化大革命で農村に追放された。
父の代は上海へ移住して、苦労して働いた。』
現社長はまだ、42歳、10年前は32歳なので
やはり、父が陰の真の功労者なのではないだろうか?
また、東日本大震災も心配をされて、被災地のヨットはどうなってしまったかを私に尋ねられた。  

私は、津波でヨットは全部流されてしまったが、
いろんなクラブから艇が寄付されて活動が復活していることを話しました。
ファーイーストは相当の額を被災地に支援されたと言っていました。

また、妹さんは、 『1980年代に福岡で開催されたOPの国際交流大会に参加されたことがある。』  とも話してくれた。

0 件のコメント:

コメントを投稿