2012年4月30日月曜日

上海・啓東・蘇州の旅 4月19日、20日、21日    2/2


    上海ボートショー 4月19日          

昨夜は Medy さんを彼女のホテルまで送り、我々も近くのホテルに泊まった、がジャンは適切な駐車場を見つけられなかったようだった。 朝ホテルを出ると、車は立派なビルの玄関前ロータリーに停車してある。 『こんなとこなのに停めても大丈夫か?』 『大丈夫だよ。』 国の事情の違いに感心していると、黒服のお兄さんが近づいてきて、ジャンと何か話している。 けげんそうな顔をしてお金を払っていた。 『いくら払ったの?』 と聞くと、『30元(390円)。』 
 30元ならば安いものと私は思うのだが、ジャンは“納得”できなくてブツブツ言っていた。

ジャンの車はHONDAのマークがあるものの、実はイミテーション。
もう80万kmも走っている中古車。 不具合がいっぱいあるが何とか走っている。


 Medy さんは其田さんにとって、大事なお客さんなので、ボートショーの送り迎えをする。
Madyさんはマリオット(超豪華)ホテルの宿泊。         上海に来た目的は、ミラーディンギーを20艇購入する事。彼女はフィリピンセーリング協会(PSA)のチームマネージャーで、協会会長の意志を受けボートショーで其田さんのミラーを検分する。
上海ボートショーの会場は、昨年までは別の場所だったが、年々規模が大きくなり、手狭になったので、今年からは上海万博の跡地に移った。
広大な敷地の一角にミラーが展示されていた。
其田さんは、あちこちと連絡など忙しそうだ。私はこの場に立っていると、係員と思ったか、色々とミラーについて質問してくる。中にはイタリア人の営業マンが、「イタリアのディンギーを中国で作ってくれないか?」などと交渉してきたりした。   また、艇をじっと見ていた人に、こちらから、「Can I help you?」 と話しかけると、さっと引いてしまった。 この言葉は、日本でもただ見ているだけのお客に店員が、「何か御用はありませんか?」と近寄ると、買う気のない客はさっと逃げる場合と、まったく同じで、笑いが込み上げてきた。
Madyさんに細部を説明する其田さん。



Eileenも寄ってくれた。

向かい側のブースではこんな光景もありました。
 


隣ではカヤックの体験乗船。

ジュニアセーラー(小水手) 募集のポスターです。
漢字を意訳すると面白い。

2.主催は、クラブと電視台(テレビ局) 
3.対象は、(6歳~16歳) 熱愛水上運動項目青少年
4.活動特色 ●強壮体魂、増長航海知識和帆船駕駆技能
●感受航海文化、 体会欧式教育;
●充実学生暑期生活、 培養友愛合作精神;
● 培養学員独立生活能力和耐労的精神;
● 自然生応及海洋知識。

私のクラブにも採用したいキャッチコピーがいっっぱいです。
屋内展示は大きな建物の中で

よくもこれだけの美人を集めたもの、と感心するほど多くのモデルがいた。
さすがは商売熱心な中国。
 ヤマハも出ていました。

ファーイースト社のブースは 意外と小さかった。
艇は1艇も展示されていない。
昨晩の夕食会で主催代表を務めた、社長の妹さん。
私はChristina と言うメールの交信相手とお逢いしたかったが、ここへも来ていないという。
「どんな人?。」と聞くと、「23歳で今お腹が大きい(妊娠中)。」 と言っていた。

スズキの船外機も出品されていましたが日本企業は、他の一攫千金を夢見るような会社とは違い、あまり元気があるようには見えませんでした。




蘇州 4月20日

“蘇州夜曲” ってご存知ですか? 私の父母の世代が若かりし頃、大陸へのロマンと情熱を傾けた時代に流行った歌です。 私の生まれて2か月後には現在の中国政府が成立しました。 中国からの引き上げと国交断絶の時代で、幼い頃には、中国の話が多く、 日本の大陸に対しての考え方が甘かったと批判されながらも、一度は行きたいと思い、また私の生きているうちに中国を訪れることは無いだろう。 と50年前は認識していました。
人生とは面白いもので、昔、蘇州って、いったいどんなところなんだろうと考え、今、こうして、その蘇州にいるのです。 遠い記憶が、父母たちの分も含めて戻ってきます。 
写真フィルムのネガを見るような歴史の裏や、古い人たちの気持ちがどうあろうと、ここの風景は正直です。

昨年に計測した木造艇のミラーは
上海工場で造られていたが、


今回では、
蘇州に松本さんのクルーザー建造所があり
その片隅を借りてFRPミラーが建造されていた。


ジャンは普段は上海工場へ通い
FRPミラーの仕事も多いので、その時には蘇州にも借りたアパートから出勤するとの二股生活を送っている。



私はISAFから派遣された計測員で、このミラーがクラスルールを満たしているかを検査します。
ミラーは国際クラスで、FRP艇は、そのモールドから出た1号艇(これをプロトタイプと呼ぶ)
を検査する事により、クラスに適合していると認定されれば、そのモールドから製造されたハルは全て、OKとの評価がなされる。 レース出場にはプラーク№が必要であり、 この検査に受からない限り、ISAFから
プラーク シールは発行されません。

つまり、IM(私など)を他国から呼ばない限り、正式艇として量産・販売する事は出来ないのです。




基準となるラインは、レーザー レベルで                水平・垂直を割り出します。      そこから計測ポイントを見つけます。




後ろは松本さんの建造するクルーザー


            バウトランサムの幅を測定中
ハルの内部はエアタンクになっており、この減圧検査にはある部品が必要なので、       計測の途中だが、街へ買い物に行く。           

蘇州市は古い建物がそこらじゅうに目立つ。


繁華街に駐車すると、さっそく料金の徴収。
車がHODAじゃないのに気が付きましたか?
実は、昨日ホテルからボートショーに向かう途中、
エンジン水パイプが破れ高架道路で立ち往生!!!。
ジャンを残して車外へ出ると、アッと言う間にタクシーが止まる。 我々はそれに乗ってボートショー会場へ、
 ジャンは後から上海の工場長の車を調達して、無事合流しました。 車のオーバーヒートなんて、何十年ぶりの出来事か、懐かしかった。



中国は露店が多い。
またここ蘇州は運河が多いのでも有名。
最初の写真はこの橋から撮影しました。


これが工場長の教えてくれたエアーポンプ系の部品屋さん。
ホームセンターよりもここの方がいいと勧めてくれた。

出てきたのはお店の老夫婦。
一見して、たよりなく見えて
大丈夫かな?と思いながら話し合いの結果、机の底から取り出してきたのは
意外とハイテク部品だった。

プシュッと押すだけでジョイントがキッチリ閉まり
其田さんも、「こんなの日本では見たことない
よ。」 と言っていた。


大きく横にはみ出た自転車、よくバランスがとれるよね。 籠の中にはニワトリがいた。

松本さんの事務所がある管理棟。




日本人が 4人
左から、オオバさん(日本在住)、私、松本さん(中国在住)、其田さん   


計測も終わり、蘇州から上海へ戻る。 
  

夕食は今夜が最後なので、中心街の森ビル近くで取る事にした。                                                                                      写真の右の一番高いのが森ビル。
左は上海タワー。

思えば18年前にベンガルⅡで
「関西空港の開港記念・
上海-大阪レース」に出場した時、
この川で、河岸に集まった大勢の上海市民の前で、デモ セーリングを行ったのが、つい昨日のような気がする。 その時は、この景色は、工事中の上海タワーが、砂漠のように何もないところにポツンと建っており、他には何も建ってはいない異様さに、「なんという景色なんだ!」と思った。 
そしてその翌年から 上海ボートショーが始まった。




今は、無から一夜城のような大都会が出現し、
世界のどこにも引けをとらない程の
繁栄を極めている。
一方で 少し農村に入れば
 今だにロバが馬車に木材を載せて曳いて歩いている光景にも出くわす。 
このギャップの激しさこそが、今の中国を物語っている。

   このモール街に入り、香港料理を食べました。


搭乗しようとすると、ゲート通路には等間隔で、中日邦交正常化40周年の
ディスプレイが並べられていた。 
桂林の風景と、富士山の双方が、両国の象徴とされている。

「コンプレックス」を「錯綜心理」と訳すと、このディスプレイような日本に対する中国の暖かい配慮と、滞在中に連日テレビに映っていた、“東京都知事狂言”との厳しい報道。 私の見てきた5日間の明と暗。
地方での圧倒的な道路建設パワーと都市渋滞。 中国の近未来予測不安。 すべてが錯綜としており、良くも悪くも、これが辛亥革命100年を表しているのかもしれない。
知れば知るほど奥深い鏡。
日本と中国の鏡を2枚向かい合わせた時に
底知れぬ遠い世界まで鏡が続いているのが覗き見える。
中部空港の旅券審査を通り抜け
鏡の裏から私の国に、今帰ってきた。





2012年4月28日土曜日

上海・啓東・蘇州の旅 2012年4月18日   1/2

朝目覚めて、ホテルの窓から外を眺める。
人生は旅そのもの、未知な人と出会う楽しみは人生と同じ、
私のまだ染まっていない部分が、出会う人たちの色に染められ、
あるいはペンキで家を塗り替えるように、染め変えられる。





今回の中国の旅の始まりはここ、啓東、旅行計画はすべて其田さんと、
彼の助手のジャンがしてくれるので、私はただ中部空港のチェックインカウンターに
旅券を見せるだけ。 そこから鏡の裏にある「不思議な国」に足を踏み入れる。
4月17日の夜は「啓東グランドホテル」で泊まった。
ジャンが言うには、「荒川さんのために、この町で一番いいホテルを取った。」
だが、私はこの市そのものを知らなかったし、中国発音を何度聞いても市の名を覚えられない。

ホテルのチェックアウトは時間がかかる。部屋の有料小物(飲料、カップめん、下着、トランプ、衛生用品 等々々・・)が消費されていないかを全部チェックするためだ、待っている間に外に出て、ホテルの看板を読んで、やっとここがどこか判りかけてきた。
宿代を清算しているジャン








ジャンはカーナビに
上海ファーイースト社の新工場を打ち込んだが
よく似た地名と間違えて入れてしまったために
予期せぬ行程が
待ち受けていた。行けども行けども、ファーイーストにはたどり着かない。

今、中国には新道(モータリゼーション以後に建設した道路)と
旧道(以前からの道)の2種類がある。
                 中国では電動3輪車が大活躍、速度は40㌔まで、免許はいらず走行可能距離は50km。
写真は新道、速度標識によっては100㌔!! OKの所もある。
日本では、車幅から横にはみ出すことは禁止だが、ジャンの話では、幅の
 3倍まではOKだと、日本では信じられない事を言う。

このあたりで、すでに50㌔来てしまった。海はすぐそこだが、それらしい建物は、見渡しても全くないので間違いを確信した。前の車はどうやったらこれだけ積めるのか考えてしまうほど草を積み、それを蒔き散らしながら走っていた。

どこへ行っても菜の花ばかり、それは私の原風景でもある。私の実家周りは、今は街中にあるが、幼児の頃は畑があり、生まれて初めて覚えた花の名が菜の花だった。


写真左は携帯をカーナビとして使用しているところ

2時間田舎のドライブを満喫?した後、ようやくたどり着いた新興工業団地の入口、奥へ行くとまだあまり工場は建ってなく、①ファーイースト新工場は一番海側にある。

工場の内部に案内してもらう。
これは碧南セーリングクラブが発注した420
次期の国体(少年)種目艇として今注目を浴びている。
 

これは海陽海洋クラブが発注した RIB480 エッジを丸めた後にゲルコートでタッチアップしているところ。このあと、写真を撮るために艇に近づきすぎて、私の服は赤ペンキがいっぱいついてしまった。 まあ、見学の記念スタンプが押されたという事にしておこう。

このタイプは少し改良されており、ステアリングシステムの配管が左の溝の中に入り、
蓋式となっている。以前はパイプの中に突っ込む方式だったので、中にものが入ると
取り出せなかったが、今は蓋を開けて掃除もできるようになった。

トランサムの高さは542㎜

FRP全長は4110㎜

FRP幅は1657㎜

これは1クラス大きいRIB580のモールド


いつもメールではクリスティーナさんとコンタクトを取っていて、最後に「明日、上海で会いましょう。」と書いてあったので、ここで会えるかと思ったが、留守だった。 
彼女の代わりに、案内をしてくれたのは、品質管理の主任。

  終わったのはちょうど12時で昼休みに入った。 予定時間が2時間遅れている。 外で食事を取ると遅くなるので、主任が「食べていかないか?」との誘いに、ありがたく頂戴することにした。 だだっ広い食堂。今100人の従業員は、今後もっと増えることを予想しているのだろうか?

ファーイースト10周年記念イベント

上海の西外れ、太湖との中間に、淀山湖と言うかなり大きな湖がある。
62平方㌔もあるのだが、大き目の地図には描かれていない。
ここにファーイースト社のセーリングクラブがあり、
創立10周年記念試乗会があるので向かった。
啓東の新工場から直線距離で約120km、そのうち50kmは上海市内を抜ける。
市内は高架の都市高速だが、まったく車の数珠つなぎ状態で、低速道路。
ドライバーのマナーはよくない。 スキあらば強引に割り込むのが普通、
昨年の大地震の時、中国のメディアは、災害直後の
日本の譲り合いの交通に「驚嘆」したのがよくわかる。
ジャンの話では、マイカーを持つ人はまだ少ない。
“快楽車的生活” とマイカーブームの到来を告げるポスターが
商店に貼ってあったのを見かけた。
ガソリン代はリッター100円と、収入の割にはまだ高い。
それでもなお、この渋滞状況。半分の人が車を持つ時代が来れば上海交通はどうなるんだろう。
やっと郊外に 出ると、リゾート地のような景色に代わる。
軍やら大学やらいろんな施設が目立つ。その中に、木立ちの間から空母のようなものが見えた。


セーリングクラブでの写真はこれ1枚だけ。
実は、この時、昨夜食べたナマの沢蟹が持つバイキンが、私の腹の中で暴れだしていたのです。   後で松本さんが言うには、「あれはダメです、日本人はたいてい当たりますね。」 ジャンは、「僕も食べたけど、大丈夫だよ。」  「中国人は大丈夫、慣れているから、」と松本さん。  私は親から受けた、『もったいない教育』のせいで、不審ながらも食べてしまった事に後悔した、がもう手遅れ。  クラブに着いたのが4時過ぎ、5時には試乗会は終了して、   一番楽しみにしていた夕食会の料亭へのマイクロバスに、お腹の不安抱えて乗った。         

写真はシンガポールのレーザーセイラーEileenさん。                                 
料亭 “樟居” に到着。
看板は何もないので一見料亭には見えないが、格式が高そう。
ゲストは西欧人が多かった。日本で8月に開講されるIMセミナーのチラシを用意したのだが、クルーザー系のお客が多く、渡しても効果のほどはあまり望めないようだった。
庭園を散策する。
私より1日遅れて日本を出た其田さんと、ようやくここで合流できました。
今日はファーイースト社の社長は姿を見せず、代理で妹さんにゲストは接待していただいた。

達筆でサラサラと漢詩を書き上げると
そばにいた、Eileenさんが、英訳する。    「高い山から水が流れ、その音を観知りする。」    
彼女は英語、中国語(広東語、福建語)日本語ができ、普段は英語を使っているとか。

食事が始まり、妹さんはファーイースト ファミリーの3代に渡る物語を話し始めました。
 『祖父の代はサンフランシスコに出稼ぎに行き、成功して故郷に帰り、ワイナリーで大成功をおさめたが、文化大革命で農村に追放された。
父の代は上海へ移住して、苦労して働いた。』
現社長はまだ、42歳、10年前は32歳なので
やはり、父が陰の真の功労者なのではないだろうか?
また、東日本大震災も心配をされて、被災地のヨットはどうなってしまったかを私に尋ねられた。  

私は、津波でヨットは全部流されてしまったが、
いろんなクラブから艇が寄付されて活動が復活していることを話しました。
ファーイーストは相当の額を被災地に支援されたと言っていました。

また、妹さんは、 『1980年代に福岡で開催されたOPの国際交流大会に参加されたことがある。』  とも話してくれた。